心と体

はじめまして

2018年も、残り少なくなりましたね(-.-)

今年も、何となく過ごした1年でした(-.-;)

と言うのも、私は介護生活です

しかも、介護が始まる2年前には、鬱病になりました(・.・;)

鬱病は、未だに治療が続いてます

 

介護をしているみなさん

介護疲れしていませんか?

介護は、けっして一人では抱え込まないで下さい

あなたが倒れますよ

 

私は、そんな介護疲れの人や、希望のなくなった人の捌け口になればと思い、このブログを立ち上げることにしました。

 

私の体験談を、昨年二日間で、31ページ文章にしてみましたので、宜しかったら、読んでみて下さい

非難される方もいらっしゃると思いますが、それはそれで構いません

気がついたことがあれば、教えていただければありがたいです

では。。。。

 

 

 

生きること

  

鬱病患者が、認知症を介護すると・・・

8年間の介護日誌

 

---- プロローグ ----

  今から、11年前。私は、鬱病を発症した。しかし、これが初めてではなかった。

18年前にも、鬱病を発症して、家族の協力もあり、約5年でほぼ完治していた。

その頃の私は、お堅い職場で働いていた。天真爛漫で、明朗快活の私にとって、この職場は緊張感あふれる場所だった。咳1つ出来ないほどの静かなフロアで、聞こえてくるのは、電話をしている人の声だけ。これが、大手企業の職場なのかと思っていた。そんな中、イジメらしきものもあった。人の弱みに付け込んで、チクチクと嫌味三昧。この職場には、身動きが取れないような圧迫感があった。私は、イジメと言うものがよく分からなかったけど、実際に目の当たりにすると、イジメに合う人はたまったものじゃないとつくづく感じていた。ある意味、私がイジメの対象にならなくて良かったとさえ思ったほどだ。私は、そんな雰囲気にストレスを感じていた。

私が、書類に印を押す作業をしていた時、隣に座っていた男性社員の人から、「もっと静かにできないの?」と言われた。そんなにバタバタとやっていたつもりはないのだが、その人には、印を押す僅かなパタパタする音が気に入らなかったようだ。それからと言うもの、何をするのも、集中力や緊張感でいっぱいになった。ストレスは、ピークだったかもしれない。何しろ、あまりにもの緊張感で、自分の思うように仕事ができないのだから。その内、退社時間が楽しみになっていった。

ある時、激しい頭痛と、気だるさ。そして、イライラで、職場にいる事が落ち着かなくなっていった。集中力や判断力にかけている自分に気がついた。

その時、もしかして・・・辛かった鬱病の頃が、脳裏に浮かんだ。いくら寝ても疲れが取れず、このままでは、また可笑しくなってしまうと思っていた。

自分の身体をコントロールできなくなり、気が付くと、私は、再び心療内科の待合室にいた。また、来てしまったと思った。

診察室に入った時、先生の顔を見た途端に、涙がどっと溢れ出た。先生に何を言ったか覚えていない。ただ涙が出てしまう。

そして、先生から「また鬱病ですね」と言われた。心のなかで、「どうして?」と叫んでいたが、とにかく涙が止まらない。

帰りのバスの中でも、涙を抑える事に必死だった。家に帰り、玄関に入った途端に、また涙が、どっと溢れ出た。母が、私の様子を見て、複雑な顔をしてた。「何か言われたの?」と聞かれ、「また、鬱なんだって。何で、鬱になるんだろう?」と自分に問いかけるように言った。

 この日から、また鬱病との闘いが始まった。

 

 

---- 転職 ----

 私は、二度目の鬱病と知った時、この会社では働けないと思っていたが、何をしたらいいのか途方にくれていた。働かずに、暫くは休養をすれば良かったのかもしれないが、家でじっとしているタイプではないし、こんな時は、引き籠りになると、ろくな事をかんがえないと思っていた。では、この鬱病で、いったい何が出来るのだろうか?時間をかけて考えた。

結果、会社を辞めて、誰にでも優しく、イジメのない暖かくなるような、人の為になる仕事をしたいと考え、介護職を選んだ。

 先ず、ヘルパー講座に通うところから始まった。講座では、みんな親切でアットホームな雰囲気があり、私と同じ気持ちで講座を受けている人が多かったので、気楽に口座を受ける事が出来た。3ケ月ぐらいで、講座は終了した。介護職に就くまで、それほど時間は掛からなかった。私は、鬱病を隠して、月2回の受診を受けながら、病院内にあるデイサービスで働く事になった。

初めての職場で緊張した。みんなしゃんしゃん仕事をしている。デイサービス介護職は、利用者とのコミュニケーションや技術を求められ、送迎があるのだ。多くの事を学びながら、利用者の送迎の道を覚えなければいけない。仕事は、厳しかった。技術面では、なかなか思うように出来なくて大変だった。が、一番大変なのは、送迎だった。車の運転は、問題なかったのだが、利用者さんの家を覚えるのに苦労した。地図だけを渡され、地図を指さして「ここだから」と言われるだけ。最初は、ハイエースの車の補助で送迎したのだが、1回くらいでは覚えられなかった。今までは、1回で覚えられたのに・・・と思う事もあり、鬱病のせいなのか?と思うと、ちょっと不安になっていた。でも、イライラやストレスを感じるような事は、ほとんどなかった。仕事に夢中になり、それが楽しくて苦痛ではなかったのだろう。

私は、なかなか覚えられないと言う事をスタッフの人に話してみた。そうしたら、たまたま通りかかった男性スタッフを指さして「藤田さんにきいて。あの人、よく知ってるから」と言われた。私は、人にものを頼むのは好きではないが、この仕事をする以上、送迎はなくてはならない業務なのだ。藤田さんに、「行き方を教えて下さい」と頼んだ。彼は、心地よく教えてくれると言ってくれた。そして、「今度の日曜日は空いてるから、その時はどう?」と言われて、正直驚いたが、私は、早く覚えたい業務だったので、「じゃ、日曜日にお願いします」と言って、お互いの電話番号を交換した。

それから一カ月。毎週日曜日に、送迎の訓練をして貰った。そうしている内に、本来の介護の仕事の方も慣れて来て、スタッフの人にも良くして貰った。仕事に慣れてきた頃、アクシデントが発生した。突然、腰が痛くなり、歩くのもままならない状態になった。青信号を渡るのに間に合わなくなるほど、激しい腰痛で足が前に出ないほどだった。

このままでは、仕事は続けられないと思い、整形外科に行ってみた。検査をして貰った結果、ヘルニアと診断された。仕事を辞めざる負えなくなった。介護の仕事が面白いと思うようになってきている矢先のアクシデントだった。

  

 

--- 結婚 ---

結局、やりたかった仕事も、3:ケ月足らずで辞める事になり、私は、「何をやってもダメなんだ」と、自信喪失になってしまい、気分が沈む日が暫く続いた。

職場は去ったが、送迎の訓練をしてくれた藤田さんとは、仕事を辞めてからも、毎週日曜日に会っている。そう、いつの間にか、付き合っていた。

彼といると、沈んだ気持ちも和らぎ、何故か落ち着く感じがあった。

ある日のデートの時、「一緒に暮らそうよ」と、藤田さんに言われ、私は声を詰まらせた。これって、プロポーズ?と思った瞬間、私は一瞬だけど、声が出なかったが、小さく一呼吸して、「いいよ」と答えた。勢いもあったが、よくよく考えてみると、私は、鬱病を患っている。人前では、至って元気で明るく振る舞っていたので、本当の私を知ったら、幻滅するのではないかと言う不安があったのだ。鬱病は、環境の変化で悪化すると聞いている。

私は、思いきって鬱病を告白した。すると彼は、「そんなこと、関係ない。僕が鬱病を治す」と言ったのだ。これには、正直驚いた。

私達は、未だお互い分からない事ばかりだ。その事を言ってみた。すると「一緒になって分かっていくのも、良しじゃない?全てを分かって結婚する人っているのかなぁ」と言った。これにも私は驚いた。と、同時に、もし結婚した途端にDVだったとか、マザコンだったとか、女ったらしだったと言うのでは困るなと考えていた。「いいよ」と言ったものの、若干の不安があった。若干と言うのも、仕事をしている彼を見ていると、到底そういうタイプを考えられないと思っていたからだ。

彼といると、心が癒される。そして、居心地が良いのだ。この人だったら、一緒にやっていけるかも・・・と思っていた。

 いろんな話をしている内に、彼は、兄と同じ高校に通っていたと言うことと、彼の妹は、私と同じ高校に通っていたというのも、何となく運命的なものも感じるようになっていった。が、どうしても知りたい事があったが、顔をみたら聞けなかった。私も、小心になったもんだなと、自分らしくない苛立ちを少し感じながら家まで送ってもらった。

 帰宅したものの、どうしても気になる。気になる事をうやむやにしたくない私は、正直に思っている事をぶつけてみようと思った。寝る前にメールで聞く事にした。

実は、兄の高校は進学校だ。大学に行ってないはずがない。しかも、そこそこの大学にいってるんじゃないかと思い、「大学はどこに行ったの?」とメールに綴った。

それまでも、聞いた事はあるが、「大した大学ではないよ」と言って、ちゃんと答えてくれていなかったのだ。どうしても、知りたかった。結婚となれば、両親にも話さなければいけない事だと思った為だ。

返信があった。「いつ聞いてくれるかと思ってた。僕に興味をもってくれたんだね。僕の行った大学は、東京大学です。」との返信だった。私は、メールを読んだ瞬間、身を引いてしまった。「えっ、えーーー!」ちょっと信じられなかった。そんなに頭が良い人が、どうして私みたいな女を好きになったのか?何で私を選んだのか?何となく納得出来ない思いで、メールを読んだ。

「東大に行ったような人なんだから、私なんかでなくても、いい人いるんじゃないの?」みたいなメールを送り返した気がする。すると彼は「大学と結婚する訳じゃないし、僕がいいと思ったんだから、それが全てだよ」みたいなメールが届いた。確かに、彼の言う通りだ。大学と結婚をする訳ではない。今の気持ちが大事なんだと、自分に言い聞かせるようにして、メールのキャッチボールが終わった。

しかし、やっぱり何かあるんじゃないかと言う気持ちは、拭えないままでいた。と言うのも、私達は、お互い49歳なのだ。この年になるまで、一度も結婚歴はなかったのだろうか?まぁ、私も結婚歴はないので、不思議でないと言えば不思議ではないんだけど、何となくすっきりしないままになってしまった。

その後も何度かデートをし、親との同居もしないと言う事だったので、私は、結婚をする事に決めたのが、知り合って3ケ月ぐらい経った時だった。

俗に言うスピード結婚だ。何も心配ないと言ったらウソになるが、自分で決めた事だから、自分を信じようと思った。彼といる時は、鬱病の悪化もなかったし、むしろ、気分は良くなっていったからだ。

 そうして、私達は、6月にお互い初婚で入籍をした。この時、私達は、50歳になっていた。

 

 

 --- 新たな出発 ---- 

 二人だけの新生活が始まった。2LDKのマンションでスタートした。

この時、二度目の鬱病を発症して3年経ったが、悪化していないのが嬉しくて、毎日が楽しかった。

このころ、私は再び介護職に就いていた。職場は明るく、みんな元気いっぱいで、何と言っても、介護に熱心に取り組んでいた。勉強になると思った。私も、基本、明るく元気いっぱいな女だから、腰さえ痛めなかったら、巧くやっていけると思っていた。でも、そうではなかった。スタッフに不満はない。利用者にも不満はなかった。だけど、私はやっぱり鬱病なのだと感じさせられる事が多かった。

介護技術を学ぼうと必死になっていたのだけど、頭で分かっていても、身体がついていかないのだ。技術を教わっている時でも、頭がパニックになって、冷や汗が出てくるし集中出来ない。そんな事が続くと、当然、嫌気がさされるだろう。そういう日が続いている内に、明るく元気なみんなの輪の中に入れなくなっていった。したがって、私だけが浮いた存在になるのだ。努めて明るく笑顔でスタッフや利用者さんと接しようとすればするほど、ストレスを感じるようになった。仕事は楽しいと思っていたけど、やっぱり私には無理!と思い始めたのだ。自分が鬱病で、今の現状を話してみようかと何度も思った。でも、言えなかった。それはとても辛い事だった。

苦しみながらも、送迎だけは楽しかった。と言うか、心地よかったと言った方がいいかもしれない。送迎は、慎重になりながらも、ストレスを感じる事はなかった。運転している事が楽しかったのだ。

 仕事が終わり、家に帰ると激しい疲労感を感じていた。「どうしてこんなに疲れるのだろう?」と思うほど、身体が動かないぐらいに疲れる事があった。もう、何もする気力がない。食事の用意がいつもしんどかった。基本的に、私は料理をするのが好きだったが、帰宅後の辛さは、私の身体を板にでも縛り付けているようだった。そんな私を、夫は優しく包んでくれた。介護のいろはも教えてくれる。だけど、布団に入ると、何故か訳もなく涙が出てくる日が続いた。私が、だめなヘルパーなんだから、仕方がないと諦めるしかなかったが、以前、利用者さんから「あなたの顔を見るだけで、癒されるね」と言われて、その言葉を励みにしていた事を思い出しては、自分を奮い立たせようと努めていた。

 職場は、こうしてまた辛い日々が続いたが、休みの日には、夫と二人でリラックスした時間が静かに流れていた。私が癒されるひとときだった。夫は、結婚後も、変わる事なく優しく、私の事を一番に考えてくれていた。

ところが私には、漠然とした不安を感じていた。何か物騒ぎのような感じと言うか、どうしようもない不安を感じていたのだ。月2回の心療内科の受診日に、先生に、結婚した事と私の気持ちを率直に話してみた。先生から、「お相手の人は、どんな人ですか?」と聞かれ、私は夫の事を話した。

夫はいつも「何もしなくてもいいんだよ」「やらなきゃいけないって事はないんだから、やりたくない事はしなくてもいいんだ。やりたい事だけをすればいい」と、言ってくれていた。食事の用意も、「やりたくない時は、お茶漬けだけでもいいし、僕が作ってもいいんだから」と言って、夫が夕食を作ってくれることもあった。

そして、私が辛い思いをしているのを察すると、「仕事も、嫌なら辞めてもいいんだよ。辛い思いをしてまで働かなくてもいいから」と、言ってくれていた。私は、夫の人を思いやる心は、本物なんだと思っていた。どれだけ夫の言葉に救われたか分からない。この事を、先生に話した。「良い人と結婚しましたね。鬱病の人には、そういう人が一番いいんです。なかなかそういう人はいませんよ」と言った。

 しかし、夫にも、悩みはあったのだ。自分の職場に不満があり、勤めを辞めてしまったのだ。自分の辛さは、あまり口にする事なく、ただ一生懸命だった夫にも辛い思いはあったのだ。その時、私は夫の為に何もしてあげる事は出来なかった。幸いにして、次の仕事は直ぐに決まり、新しい職場に、毎日片道45分かけての自転車通勤を始めた。が、夫の仕事はそれだけではなかった。

夜は、週に2日ぐらいの割合で、塾講師もやっていたのだ。それは、少しでも多くの収入を得たいという気持ちで始めた塾講師だったが、もしかすると私が仕事を辞めてもいいように準備をしていたのかもしれない。

他にも、夫にはやらなければいけない事があった。それは、仕事の帰りに実家に寄るという仕事だ。父(お舅)は足が悪く、それを母一人で面倒をみていたが、母一人ではどうしようもないことがある為、様子を伺いに仕事帰りに実家に寄っていた。父は、昼間はデイサービスに通っていた。その間、母はパチンコを楽しんでいた。母は、パチンコが大好きで、パチンコ依存症になっていた。母にとって、父の介護中の唯一のストレス解消だったのかもしれない。

私達の結婚生活一年目は、こんな調子で時間が過ぎていった。

 ある日、夫が実家に寄った時、父が発熱。あまりにも様子がおかしいので、救急車を呼んで、病院に運んだ。が、父の体調は良くなる事なく、敗血症で、翌日には帰らぬ人となった。

 

 

--- 母の異変 ---

 父が亡くなり、滞りなく葬儀も終わった。

私は、その時、母の様子に異様な感じがした。長年連れ添った父の葬儀だと言うのに、悲しそうな顔をしているようには見えなかった。とても中の良い夫婦だと思っていたので、涙を流さない母を見て不思議な感じがした。その理由が、後になって分かる。

このころ、私は仕事を辞めた。医者からは、ドクターストップがかかり、私自身も、職場に慣れず、今の私には介護の仕事は無理だと自分で判断したのだ。職場のリーダーも、それは分かっていたようで、事実上の解雇になった。私は、ある意味ホットとした。自分から、辞めると言いだせなかったのだ。こうして、仕事を辞め、私は再び専業主婦の時間を過ごすようになった。

昼間は、私の実家に行ったり、両親と食事に行ったり、一人暮しになった母の様子を見に行ったりと、マイペースで行動して、時間がゆっくりと流れるようだった。

私の心身も、少しずつ穏やかになり、激しかった頭痛も少しずつ治まっていった。精神的には未だ不安定だったが、少しずつ気分も良くなっていった。が、漠然とした不安のようなものを相変わらず拭えなかった。何が不安だったのかは自分でもわからなかった。ただ不安で、何か嫌な感じがしていたが、そんな気持ちも忘れるぐらいに、穏やかになっていくのを感じていた。

 そんなにある日。いつものように、夫が仕事帰りに実家に寄った時のことだ。一人でいるはずの母が家にいなかった。夜8時を過ぎていたと思う。夫から電話があった。「パチンコでも行ってるのかなぁ。ちょっと行ってみるわ」と言って、パチンコ屋に行ったところ、時間を忘れて、パチンコを楽しんでいる母がいたらしい。

直ぐに家に連れて帰り話を聞いてみると、昼と夜の感覚が分からなかったようだ。

こんな事もあった。夜中の2時頃、「誰かが家に入って来て出て行かない」と、交番に駆け込んだらしい。交番のおまわりさんと一緒に家に帰ると、誰もいない。おまわりさんは、母を宥めて帰って行ったと言う事があった。これは、ある事で翌日に知る事になった。どうやら幻覚を見たようだったが、その時には訳が分からなかった。

夫は、母の言動がおかしいと判断したようだ。職業柄、認知症の利用者を見ている。だから、もしかして・・・と思ったのだろう。私ですら、母の様子に異常を感じていたぐらいだから、夫に分からないはずがない。幻覚がある以上、受診したほうが良いと考えたのだろう。義妹に頼んで、母を脳神経外科に連れて行って貰った。そして、検査をした結果、アルツハイマー認知症と、診断された。驚かなかった。

やっぱり・・・と思った。

このまま一人では良くないからといって、昼間はデイサービスを利用させる事にした。だけど、その後もいろんな事があった。母から度々電話が掛かるようになった。電話の内容は「今日、貴敏は来るかね?」というものだった。認知症が分かってか

らは、夫も、出来るだけ仕事帰りには寄るようにしていた。そして、私も、時間があると、昼間に寄るようになった。

ある日、夫が実家に行った時、袋に入ったままの羽毛布団が、部屋の隅に置いてあった。その請求書が来ていて「これが来たんだけど、どうしようか?」と母は夫に聞いた。請求書を見れば、羽毛布団の高額な請求書だった。母に問いただすと、「あんたにあげようと思って買った。喜ぶだろうと思って・・」と言った。そんな物を夫が喜ぶはずがない。夫は、悪徳商法に捕まったと思った。しかし、クーリングをするには、時間が経ってしまっている。困った末、生活消費センターに相談してみる事にした。色々と話を聞き、とりあえず必要書類を集める事にしたが「返却が出来るかどうかはわからないけど、とりあえず、申し立てをしてみましょう」と言う事だった。病院に行って、認知症だと言う診断書を書いて貰ったり、必要書類を作成したりと、手間のかかる事が多かった。何度か、生活消費センターに足を運び、結局支払わなくても良い事になったのだが、母の要望で、その羽毛布団は加工されていた。だから、加工料だけは支払って欲しいとの事だった。3万円ぐらいだったか、それだけは支払い、布団は、貰う事になった。加工している為、返品はしていらないとの事だった。

他にもあった。悪徳商法らしき宝石商が来たり、水の機械が置いてあったりと、いろんな悪徳商法の餌食になっていたのだ。また母は認知に加えて、お人好しなので、何でも来いと言う態度で、誰が来ても受け入れていたのだ。

これで、さすがに穏やかな夫も苛立ちを感じるようになっていた。私に「母ちゃんを一人にしておくと、また悪徳商法に引っかかるから、一緒に住んではもらえないだろうか」と言って来た。私は、覚悟のようなものはしていたが、自分の病気の事を考えると、夫の考えを受け入れる事は出来なかった。「少し考えさせて」と言っただけで、結論は出さなかった。

すると、今度は母直々に「一緒に住んでは貰えないだろうか。博子さんは、私の事が嫌い?私は、博子さんが大好きなのよ。だから、一緒に暮らせば楽しかろうと思うんだけど」と電話をして来た。母から直接言われると、私は「嫌よ」とは言えず、「今どうしたらいいか考えてるから、もうちょっと待ってね」と言って逃げた。

 私は、悩んだ。そして、苦しんだ。悪徳商法に簡単に騙される母を一人にしておく訳にはいかない。だけど私の病気は悪化する。そう思っていた。私の両親にも相談してみた。「そりゃぁ、困ったなぁ」と言うだけで、同居しろとも、するなとも言わなかった。父は「あんたらで考えて、決めなきゃしょうがない」と言ってた。

私は、暫く悩んだ。夫は「母ちゃんの面倒は、僕が見るから。博子は何もしなくてもいいから。」と言った。しかし、デイサービスに行くまでと、デイサービスから帰ってからの僅かな時間は、私一人で面倒をみなければならない。普通だったら、大した事ではないだろう。しかし、私の鬱は、やっと落ち着いて安定してきたところだっただけに、すんなりと受け入れる事は出来なかった。私は悩んだ。悩んで悩

んで苦しんだ。心療内科の先生にも話してみた。「一緒に暮さない方がいい」と言う。夫は、いろんな手段を考えていたようだが、親孝行な夫にとって一緒に暮らす事を強く望んでいたのだ。

結局、夫に説得されて、夫の言葉を信じて、私は同居する事に同意した。

 

 

--- 介護生活 一 ----

同居が決まった頃、私は再び介護職に就いていた。が、同居する事に決まり、私は、三度目の介護職の仕事を辞め、完全に専業主婦になった。

先ず同居にあたって、マンションを変わらなければいけない。たまたま同じマンションの中で3LDKの部屋が空いていたので、2階から3階に引っ越した。

介護生活を始める前に、私は心に決めていたことがある。

まず1つ。絶対に怒らない。2つ。平常心で笑顔で接する。3つ。共感する。4つ。話は聞いてあげる。この4つの事を自分に言い聞かせて、これからの生活に入った。

こうして、結婚生活2年目から、私の介護生活が始まった。

私の日課は、朝5時に起床して、夫のお弁当を作る事から始まる。それから、夫を起こして、お見送り。それから、母を起こして、朝食を摂らせる。朝食は、あまり食べたくないと言うので、母の好きな柔らかめの菓子パンを用意し、それを食べさせた。それから、デイサービスのお迎えを待って、お見送り。それが終わるのが、9時半ぐらい。それから、掃除をして、歩いて5分ぐらいにあるイオンに買い物に行く。昼前ぐらいに自由な時間になるので、車で10分ぐらいの所にある実家に行き、両親の様子を伺う。その頃の両親は、二人とも元気だった。だから、一緒に昼食を食べに行ったりするのが、私がリラックス出来る時間だった。

 介護生活が始まって一年ぐらいした頃から、母の認知が進んでいるのを感じるようになった。

その一つが、排泄だ。紙パンツに加えてパットがなければ、ズボンを濡らすようになった。

朝、夫が仕事に出かけたあと母を起こすと、先ずトイレに誘導する。そして、パンツを脱がしたら、パンツはベチャベチャに濡れている。普通のパットでは、間に合わなくなっていたのだ。私の一日の母の最初のお世話は、排泄の処理から始まっていた。かなりの悪臭だ。それなのに、母の鼻には、匂っていなかった。臭覚もなくなってきていたのだ。母は、私が嫌な思いをしていると思っていたのか、「いつもえらい思いをさせて、ごめんね」と必ず言う。私は「いいよ。いいよ。」と、笑顔で答えるのだが、「またかぁ」と言う気持ちで、不快感はあった。

他にも、進行していると思う事があった。それは、幻覚だ。

ある日の夜の事。夜中に玄関口で息をハァハァさせて立っているのに、夫が気が付き、「何をしてるの?」と聞くと「今、3人ぐらいの男の人が入って来たから、投げ飛ばして追い出したところよ」と言っていた。夫は「ほうね。ありがとね。でも、もういないから、寝て寝て」と言っていた。それからも、幻覚は度々あった。私と二人でいる時に、「玄関に誰かがいる」と言ったり、「今、誰かが入って来た」と言ったり、ない事をよく言うようになった。その度に、「もう出て行ったから、大丈夫よ」と言っておいた。

あまりにも幻覚の回数が増えたていったので、私は母のそういう言葉に苛立ちを感じるようになった。こんな日が延々と続く。

最初の一年は、無我夢中で頑張ってきた。しかし一年経つと、私の身体も異常を感じるようになった。頭痛が激しく、肩こりも酷い。横にならないと倒れそうなぐらいの立ち眩みもあった。頭痛がしない日はなかった。毎朝、母を送りだした後は、とにかくしんどくて、暫く座り込む事はしょっちゅうで、少しの時間だが、ぼーっとする事が多くなっていった。それでも、私には休みはなかった。

時には、母を歯科に連れて行ったり、内科に連れて行ったり、母の認知の薬を取りに行ったり・・・自分の病院にもいかなければいけない。私に、自由な時間は、殆どなかったのだ。心療内科の先生は、「頑張らないで下さい。しんどい時は、休んで下さい」と言われた。私は、この一年間は、母に心地よく暮らして貰おうと、必死に母のお世話をした。それが、鬱病には良くないらしい。食欲もなくなり、拒食症になってしまった。痩せている私の身体は、どんどん体重が減少していった。

 

  

--- デイサービス ---

デイサービスは、有り難かった。私の緊張感を解いてくれる。

デイサービスの迎えが来るまでの間、母はいつも同じ事を何度も何度も言ってくる。

「博子さんは、貴敏と別れたいと思った事ある?」とか、「私を殺したいと思った事ある?」とか、などなど。私にとって、聞きたくない言葉ばかりだ。もちろん、夫と別れたいと思った事はない。お母さんのお世話で、辛い事やしんどい事はよくあるが、何故か嫌だとか母の介護が苦しいと思った事はなかった。私の仕事だと思って、お世話をしていた。そして、もちろんの事、母を殺したいなんて思ったことがあるはずがない。自分の夫の母親なのだ。当然の事、このころは未だ、いなくなったらいいと思った事はなかった。

母に「別れたいと思った事なんてないよ」「お母さんが死んだら寂しいじゃない」といつも言っていた。母は、納得するみたいに、「そうねぇ。良かったぁ」と嬉しそうにほほ笑む。

毎朝、こういう会話ばかりをしていた。それこそ、毎日の事だ。こういう質問を毎日投げかけられると、ストレスになる。デイサービスの迎えが来るまでの時間は、とても苦痛だった。そのうち、私は人と話す事すら苦痛になっていった。

同じ事を何度も言ってくる母に、しかめっ面で少し強い口調で、「同じ事を何度も言ってるよ。もう10回ぐらい聞いたよ」と言うと、「ごめんなさい」と言ってくる。その「ごめんなさい」と言う言葉すら、苛立つようになっていった。そんな時は、怒り口調になってしまうのだ。そして、最後には「私は博子さんの事が大好きなのよ。それだけは、忘れないでね」と決まって言うのだ。その言葉にも、うんざりだ。私は、母の暗示にかかったかのように、母の言葉が頭の中を駆け巡る。そして、私のイライラはピークになる。

こうして、同じ話を30分ぐらいしている内に、デイサービスのお迎えが来る。元気良く、「おはようございます」と言われると、普通の世界に戻ったかもような気持ちになり、何となくホッとしていた。励ましの言葉もかけてくれた。「疲れてるんですね。困った事があったら何でも言って下さい。一人で抱え込まないで下さいね。私達の出来る事はやりますから。」と、いつもそう言ってくれていた。私は、味方がいるような気がして、その時は、私は一人ではないんだと思わせてくれた。

 午後2時前後に、デイサービスから電話がある。翌日の迎えの時間の連絡がくるのだ。その時に、その日の母の様子を知らせてくれる。例えば「腕に打ち身のようなあざが出来ていました」とか「今日は、足が痛いと言われたので、午後から横になって貰いました」とか、「少し、熱があったので横になって貰って、様子をみました」とか・・・事細かい事まで知らせてくれるので、母の体調管理にも役立っていた。連絡ノートにも、バイタルなど、デイサービスでの様子を記入してくれている。

デイサービスから帰って来るのは、夕方の5時から6時の間。それまでは、家事も出来る。が、1年も経つと、私に気力はなくなっていた。何かをやろうと言う気がしないのだ。身体にムチ打って、夕食の準備だけはして、母の帰りを待つ。夕食の準備が終わった頃、母は帰って来る。

母は、帰宅すると、自分の部屋に入り、パジャマに着替えて布団の中に入る。夕食までの間は、横になってテレビを見るのが、母のいつもの生活パターンなのだ。この間の時間は幾分、楽だった。母が横になっている間、私はデイサービスから持って帰った連絡ノートのチェック。その日の母の様子が書かれている。それを読んで、家族欄に、返信と気が付いた事をメモする。それが終わった頃、夫が帰宅。

夫が帰って来ると、私はホットしていた。それは、母は夫の言う事はよく聞くからだ。と同時に、夜の排泄の処理や、歯磨きなどは夫が世話をしてくれるので、私は助かるのだ。私が、あまりにもしんどい時や、体調が優れない時は、食べたものの洗い物もしてくれた。洗濯だけは、私がやった。夫の仕事用のユニホームは毎日洗濯をしなければいけなかった。洗濯が終わると、私の一日が終わる。

この日も洗濯を済ませて、寝る前のトイレに行った時、母の部屋でごとごと音がしていた。部屋を開けてみた。すると、母は起き上がって、タンスの中をかき回していた。「何をやってるの?」と聞くと、「お金がないのよ」と血相を変えた様子で、財布を探していたのだ。奇麗に畳んで入れてあったタンスの中がごった返しになっていた。「お母さん、財布はないのよ。」と言うと、「そんな事はない。私の財布があるはず」と言って、いろんな鞄の中までひっくり返して探そうとするのだ。「何で、お金がいるの?」と聞くと「私にも、入り用があるんだから」と言っていた。「お金は、私が預かってるのよ。いる時があったら、返してあげるから、今日は、もう寝たら?」と言うと、「ほう?」と言って安心したかに思えたが「1000円でいいから、ちょうだい」と言ってきた。「何に使うの?」と聞くと「パチンコするのに、お金がいる」と言う。これでは、私の手に負えないと思って、夫を呼んだ。夫に事情を話すと母に「パチンコなんか行きゃぁせんよ。今日は、もう遅いから寝ろ、寝ろ」と言うと、母は大人しく眠りにつく。お金に執着心があるようだ。認知症によく見られる症状だ。

時々「私は、お金をぜんぜん持ってないんだけど・・。少し貰えないだろうか?」と聞く事がある。常に幾らかのお金は持っていたいようだった。最初の頃は1000円ぐらいは持たせていたのだが、そのお金をデイサービス送迎の運転手に、送ってもらった時「ありがとうね」と、チップのつもりで渡してしまうのだ。その都度、送迎の人から返却されていた。そういう事もあったので、お金は、持たさない事にしたのだ。

この日以来、ときどきお金を探す行動が見えるようになっていた。そういう時に、身体をどこかにぶつけたりするのだろう。あざを作っていたりていた。

 私の心労は、それだけではない。人と話をする事すら苦痛になっていた私だったが、近所の人と顔を合わすと、いつも元気で明るい私がいた。空元気になってしまうのだ。それが、また非常に疲れた。自然と愛想が良くなるのだ。どうして、ありのままの私で接する事が出来ないのかと思うほどだった。

 

 

 

--- 母の入院 --- 

 デイサービスからの連絡ノートに、胸の痛みを訴えていると書かれてあった。母に「胸が痛いの?」と聞いても、「痛くないよ」といつも言ってた。母は、胸が痛かった事すら、忘れているようだ。暫くは、様子をみようと思っていた矢先のことだった.

夜8時頃。母が寝たかどうか見てみようと思って、部屋を覗くと、胸を押さえて、布団の上でうずくまっていた。「どうしたの?」と聞くと、「胸が痛い。苦しい。」と胸の痛みを訴えた。顔を見ると青白い顔をして、汗をかいていた。夫を呼び、母の様子を見て貰った。

熱もあるようだ。夫は、直ぐに病院に連れて行こうとして、母を背負おうとしたが太っている母を負う事が出来なかった。「ダメだ。重くておぶれない」と言い、119番に電話をした。5分ぐらいで救急車が到着し、二人がかりで救急車に乗せ、夫が付き添って、病院まで行った。私は家で、夫からの電話を待っていた。待てども待てども電話は掛からない。悪い事になってなければいいけどと、祈る気持ちで電話を待った。夜中。何時だったか覚えていないが、電話があった。「動脈硬化があって、血流が悪くて、足に巧く血が流れていないんだって」と言われ、ホッとした。良かった。大事に至らなくて良かったと、心からそう思った。結局、母は心臓から足にバイパスを通す手術をするから、入院してもらうと言うと言われたので、夫は、およそ一時間ぐらいかけて歩いて、早朝3時頃帰って来た。私も、眠れるはずもなく、ただただ夫の帰りを待っていたが、疲れているのだろう。私は先に寝てしまっていた。が、安眠する事は出来ず、度々目を覚ましていた。

翌日、夫は仕事を休み、私も一緒に母が運ばれた病院に行った。手術は、無事終わり、はっきりと覚えてはいないが、3-4日ぐらいの入院になった。私は、毎日、紙パンツとパット、寝巻を持参して通った。おもらしがあるので、紙パンツだけでは追いつかないのだ。寝巻の着替えも必要だった。母は、病院にいる事が理解出来ていない様子で、病室をキョロキョロと見まわしてした。自分がおかれている状況が分かっていないのだ。説明をして、病院にいる事は、何とか分かったようだった。様態は、思ったより早く良くなった気がする。そして、退院の日。夫は仕事を休めないからというので、私が病院に行き、退院の手続きをして、母を連れて帰った。

私は、一気に疲れが出た。毎日、病院に行かなきゃいけないと、一生懸命に動いた。その疲れが出たのだろうか。母を家に連れて帰って、布団に寝かせると、私はリビングでひざまずき、座り込んでしまった。そうなったら、もう何もしたくなくなる。というよりも、何も出来なかった。夕食の準備も出来なかった。

夜、夫が帰ると、真っ先に母の部屋を覗いた。「おかえり。治って良かったね。もう胸は痛くないの?」と優しく聞いた。母は「大丈夫よ。どっこも痛くない。ありがとね」と言う声が聞こえた。そして、私のところまで来た夫は「お疲れさん。悪かったね。母ちゃんの事、ありがとね」と労ってくれた。夫のこういう言葉で、いつも私は救われている。「ありがとう」の一言の為に、母の面倒を見ているようなものだと思った。

母は、翌日から再びデイサービスに通い始めた。

 

 

 

--- 夫の事故 ---

 退院後は、毎日母の体調や言動にますます神経質になっていた。朝、パンはしっかり食べるだろうか?顔色どうだろうか?胸は痛くないだろうか?などなど。全てが気になって仕方がなくなっていった。一日が、母で始まり、母で終わると言う感じだった。自分の事など考える余裕がなかったのだ。

相変わらず、頭痛はしんどく、身体は金縛りにあったかのように重かったが、自分が鬱病だと言う事を忘れるほど、母の事ばかりを考え、母に心地よく暮らしてもらおうと、私の気持ちはいっぱいいっぱいだった。

 そんなある日の夕方。夫からの電話で、私の身体は固まってしまった。「事故をした。自転車が壊れたから、迎えに来てくれないだろうか?」と言う電話だった。私は、目の前が真っ暗になった。瞬間的に、夫が入院とて、その間、母を私一人で見なければいけなくなったと思った。電話を持ったまま、座り込んでしまった。と同時に、「ケガはどうなの?歩けるの?」と、声を張り上げていた気がする。「大丈夫だよ」と言う夫の言葉に、安堵した。私は、直ぐに車を飛ばして、夫が事故をしたという現場に急いだ。事故は、進入禁止の道に車が入り込み、自転車に乗っている夫の姿が見えなくて車に飛ばされたらしい。近くにいた警備員の人から、3メートルぐらい飛ばされたと聞いた。救急車で運ぶようなケガでなくて良かった。命に関わる事故でなくって良かった。ただそれだけだった。

翌日、腰がいたいような気がすると言うので、会社を休み、整形外科に行ってみた。診断は、坐骨骨折というものだった。入院の必要がないと言う事で、私は、ホッとしたが、絶対安静と言うことで、1-2ケ月は、静養して下さいと言われた。もちろん、仕事は休職になった。私は、どこか嬉しくもあり、安心感もあった。最低この一カ月は、母の面倒を見なくてもいい。夫が全部やってくれる。そう思っていた。少しは、自分の身体を休める事が出来ると思った。実際、身体は、休まったのだ。夫も、身体を休めるには、ぜっこうの機会だと思っていたと思う。

事故は不運だったが、夫にとっても、悪いことばかりではなかったのだ。それは、ケアマネージャーの試験が近づいていた。勤務しながら、あるいは家に帰れば介護しながらの勉強は、なかなか出来なかったからだ。休職になったお陰で、ケアマネの勉強をする時間が出来た。

私が両親とランチに行く時も、夫は一緒に行ってくれた。買い物に行くときも、一緒に行ってくれた。私が病院の受診日も一緒に行ってくれて、先生の話も一緒に聞いてくれた。そして、私の状態を第三者の目からみた考えを先生に伝えてくれた。何をするのも、一緒だった。ずっと、不安と恐怖にも似た日々が続いていた私にとって、これほど安らぐ事はなかった。

 朝のデイサービスのお迎えの時も、一緒に送ってくれ、帰った時も、出迎えてくれた。

母も喜んでいた。やっぱり、親子の間には入り込めないと思わせるぐらいに、夫は母の面倒をよく見てくれた。私は、下の世話もしなくて済んだのだ。結婚して、初めて私の心が豊かになった一カ月だったかもしれない。

しかし、こういう時間は、アッと言う間に過ぎてしまう。楽しい時間は早いものだ。苦しく辛い時間は、とてつもなく長く感じられる。夫の休暇が終わりに近づいてきた頃、デイサービスから母が帰って来る時間が近づくと、胸がドクドクし始めるようになった。

5時が近づくと、落ち着かなくなるのだ。これは、どうしようもなく抑える事が出来なかった。夫は「帰って来ると考えるからだよ」と言う。確かにそうかもしれないが、何も考えないようにしていても、時間が来ると決まってドクドクするようになったのだ。そして、母が帰ってくると、落ち着かなくなっていった。

こうして、一カ月というひとときが過ぎていった。このころには、拒食症は落ち着き、食べられようになった。皆に心配かけさせまいと、無理やり食べていた食事だったので、食べると戻したくなり、吐き出した事がよくあったが、それがなくなった。

 

 

--- 鬱病の悪化 ---

  夫の休暇が終わり、また母と二人の時間が多くなった。

このころ母の認知は、更に進んでいってた。排泄は、排便までもが分からなくなっていた。朝から、排便の処理をし、またいつものように「えらいめに合わせて、ごめんね」から始まる。そして、朝のパンを食べている時、「博子さん、私の事嫌い?」「私は、博子さんが大好きなのよ。ずっと一緒にいてね」と、何度も何度も言う。「貴敏と別れたいと思った事ない?」などなどと、同じ事ばかりを聞かさせる。

私はその時思う。母は、私に嫌われる事を恐れているのではないか?私達と、暮らせなくなるのではないか?と、認知症なりに、何となくそう感じているのではないかと思っていた。

母は、寂しいのかもしれないと思った。

母の気持ちもわかる。このころの私は、顔では笑顔だったが、母に冷たく当たるようになっていた。この生活から逃れたいと思う事があり、母に思ってもいないような事を言っていたのだ。「もう、私はお母さんとは一緒に住めないかもしれないの。貴敏と親子二人で仲良く暮らしてよ」と言った事がある。もちろん、私の本音ではないが、それを母の頭のどこかに印象として残っていたのかもしれない。だから、あんな事を聞いてきていたのかもしれない。

私は、自分で冷たい事を言っておきながら、いつも後で後悔していた。その為に落ち込む事も増えてきた。自業自得なんだろう。だけど、私にとって、言わざる負えないと言う気持ちがあったのだ。それぐらいに、毎日が苦しかったし、イライラしていたのだろう。

母に寂しい思いをさせて・・・私が悪い。私さえ我慢すれば、皆が楽しく豊かになれる。鬱病のせいにしてはいけない。そう思うようになった。ところが、そう思えば思うほど、気持ちは沈み、気力を失ってしまう。どうして、こうなってしまうんだろうと、自問自答するのだが、答は出るはずもない。夜になると、枕に顔を伏せて、大声で叫ぶのだ。「博子のバカ!」と。

母は、私の異常を感じたかどうかは分からないが、あの頃から、私の言う事も聞いてくれなくなっていった。

例えば「ごはんよ」と声をかけても「私は食べん。あんたが食べんさい」と言って、布団から出て来なくなったし、「少し臭うから、トイレに行ってみよう」と言っても、「まだ出ない」と言って、トイレに行こうとはしない。それなのに、夫が言えば、素直に言う事を聞くのだ。誘導の仕方の言葉が悪いのかもしれないと思い、いろいろ考えて誘導してみるのだが、ますます私の言う事は聞かなくなっていった。

夫にその事を話すと、母に言い聞かせるように「何で、博子さんの言う事を聞かないの!博子さんが食べようって言ったら一緒に食べてあげないと寂しがるでしょ」と、こんなふうに話す。夫が「ごはんよ」と言ったら、直ぐに食卓に来るのだ。やっぱり、私の誘導の仕方が悪いようだ。私は、介護士失格だと思った。

私が気落ちしているところに、追い打ちがかかる。母の言葉づかいが乱暴になってきた。

 夜。夫に昼間の様子を話した。私が責められるだろうと覚悟はしていた。「お母さん、私の言う事は聞いてくれないの」「朝から、嫌味な事を何度も何度も言われて、変になりそう」と。付け足して「私が悪いことは分かってるんだけどね。」と言っておいた。すると夫は、「博子は悪くない。母ちゃんは認知なんだから、言った事は忘れているんだから、気にする事はない」と言う。「適当に、ふんふんと言っておけばいいんだよ」「博子がまともに相手にしてどうするの。適当でいいんだよ」と。確かにと思った。

だが、認知だと分かっていても、どうしても健常者と同じ接し方をしてしまう。真面目に向かい合ってしまうのだ。夫は「真面目に向かい合う必要はないんだから」と言うのだが、私には、いい加減に出来なかった。と言うのも、認知とは言え、物事をはっきりと言う人だからだ。挨拶もちゃんと出来る。人にお礼を言う事も出来る。だから、どこまでが、ボケているのか、正気なのかの線引きが私には出来なかったのだ。

何だか気が狂いそうなくらい冷静さを失ってしまっていた。心療内科の受診日、先生に、その事を話した。「御主人の言通りですよ」と言われた。「適当でいいんですよ」と。その半面「適当に出来ないから、鬱にもなるんですけどね」とも言われた。

その時、先生から提案があった。入院を勧められたのだ。「どのくらいの入院ですか?」と聞くと、「3ケ月は、必要ですね」と言われた。3ケ月も、私が家を空ける事など出来る筈がない。「薬で、もう少し様子を見させて下さい」と私は言った。「分かりました。でも、無理はしない事です。ぎりぎりまで頑張っちゃいけないんです」と言われた。

私は、悩んだ。私が3ケ月も入院すると、我が家の日常生活は、巧く回転しない。夫も仕事ができなくなる。そう思っていた。結局私は、入院をする事なく、夫に協力して貰う事にした。その頃、塾講師も辞め、できるだけ家にいる時間が増えていた。

 多少は気楽になったが、体調は優れない。頭痛は相変わらず毎日の事で、夜には、枕を濡らす日が続いていた。

ある日、突然に、何もかもが不安で嫌になった瞬間があった。その時私は、「何で、こんな思いをしてまで、生きていなければいけないんだろうか?」と思うようになる。と思う反面、「私は、何をやってもダメな女だ。人の役に立つ事なんて何も出来ない」と思った。また、涙が止まらなく溢れ出た。私は、良い嫁ではない。良い女房でもない。そう思っていた。そんなことを思うと、本当に生きている事が嫌になってしまったのだ。マンション3階の部屋のベランダから飛び降りようか?と思った事もしばしばあったが、3階では死ねない。ケガをして後遺症が残ると、もっと辛くなる。と、そんなことも考えた。何処か、高いビルの屋上に上がってみようか・・・と思った事もある。

その夜。夫に「私は、何をやってもダメ」「お母さんの面倒もろくに見れない」と涙ながらに話した。夫は言った。「博子はダメじゃない!良くやってくれている。ダメ嫁でも、ダメ女房でもない」「博子がいないと、ダメなんだから」と、私を責める事はしなかった。それどころか、私を一人の人として認めてくれていると思う反面、夫が間に合わせで言った言葉だと思っていたが、それでも、その言葉は私の気持ちを救ってくれた。

 

 

--- 実父の死 ---

私は、自分の身体をコントロールできなくなっていた。それを、鬱病だからと、鬱病のせいにしていた。何でもかんでも、鬱病のせいにしている自分が嫌だった。

そんなある日のこと。実父の肺がんが発覚したのだった。2回の手術をし、何度か入退院を繰り返しながら治療をしていたが、父は癌だとは思わせないぐらいに元気だった。とても、84歳とは思えないほどで、医者も驚いていた。父の姿は、悲観するどころか、生きる事の素晴らしさを教えてくれているようだった。退院後も毎日近所の散歩を1時間以上していた。安定していたのだ。それからと言うもの、私は実家に行く事が増えてきた。癌と闘っている父の姿を見ると、私が落ち込んではいられない。私の暗い姿を見せたくない。そういう気持ちが、再び私に向上心を与えた。

朝、母をデイサービスに送りだすと、直ぐに実家に行き、両親と過ごす時間が増えた。両親といる時は、本来の私の姿、明朗快活な自分でいられた。時には、実父の病院の送り迎えもやったが、それが苦とは思わなかった。むしろ、心地好さを感じていた。

しかし、夕方3時か4時ぐらいには帰らなければいけない。私は、忙しくなる。帰宅すると、夕食の準備をしながら、母の帰りを待たなければいけない。

5時頃になると、デイサービスから母が帰ってくる。また、胸がドクドクしてくるのだ。毎晩、ドッと疲れていた。そういう日が続く内に、私の疲労感はどんなに寝ても抜けなくなっていた。

実家に通っている内に、実母の異常も気が付いた。いつの間にか、背中が曲がっているのだ。母は、持病のリウマチがある。そのせいだと思って、あまり気にはしていなかった。が、いつも、しんどいと言ってはごそごそしていた。そういう実母を見ていても、私は手伝うと言う事が出来なかった。頭で考えても、身体が動かないのだ。頭と身体が別物のように感じていた。

実父の受診日は、いつも私と実母が付き添って行った。何度、通院に付き添っただろうか?

癌発覚から、1年目が経っていた。いつものように腫瘍マーカーを調べたり、いろんな検査をした。この日は、医者から「このまま入院して下さい」と言われた。実父は、特に具合が悪い訳でもなく、ぴんぴんして元気だったので、正直、不思議なぐらいだった。実父には、死と言うものはないと思うぐらいに元気だった。が、身体の中は癌におかされ、もう、どこに転移してもおかしくない状態だったようだ。

それからと言うもの、実母と毎日、病院を見舞った。毎日、午前中に行き、2時頃に帰っていた。実母もしんどそうで、疲れている様子だったので、夕方遅くまで病院にいる事が出来なかった。実父はいつ行っても元気だったし、足がダメになるからと言っては、病院の廊下をうろうろ歩いるぐらいだったので、帰るのは問題なかったのだ。だが、医者からは「癌が脳に飛ぶ事もありますから」と言われていた。実父には、そんな様子はうかがえなかったが、来る時が来たのだ。夜中、けいれんを起こした。脳に癌が飛んだと言われた。けいれんを起こして、そのまま意識不明になり、翌午前中に、静かに息を引き取った。85歳だった。私達家族は、茫然とした。実父が一番元気だったのに、何であんな元気だった人が・・・と思うと、涙も出なかった。これは、冗談ぐらいにしか受け止められなかったのかもしれない。

 実父は、亡くなる前には、近所の分譲住宅や中古住宅があると、「この家、買えや」とよく言っていた。近くに私達夫婦を置いておきたかったようだ。多分、母が一人になる事を察していたのだと思った。そして、実家まで徒歩2分ぐらいの所の中古住宅を、私達は父の勧めで購入した。小さな家だが、実家に近く、実母一人暮しも安心の距離だった。これは、実父がお膳立てしてくれたものだと思った。

というのも、残念なことに、私達の引っ越しを楽しみにしていた実父は、私達が引っ越す3日前に他界していた。

 

 

--- 施設の申し込み ---

 実父の死後、実母の一人暮しが始まった。この時実母は、リウマチに加えて、側湾症にもなり、酷く腰が曲がってしまって、歩く事が難しくなっていた。一人では、バスに乗る事も出来ず、買い物に行く事も出来なくなっていた。キッチンに長時間立つ事も出来なくなり、夕食は、私が運ぶようになった。精神的にも、実母は実父の死で、寂しい一人暮し。だが、幸いにして、私達家族が、徒歩2分ぐらいの所に引っ越して来たので、何かあればいつでも飛んで行ける距離に少なかれ安心感はあるようだった。

これ以来、私は二人の介護が始まった。母をデイサービスに送った後は、実家で実母と過ごすようになった。このころから、何もかもが面倒と言うか、家事もきっちりと思うようにはできなくなっていき、何に対しても感心がなく、テレビを見てもつまらなく思い、些細なことが気に障るようになっていった。身体も、頭痛と肩こりだけでなく、吐き気や身体全体が痛むようになり、病院に行った事もあるが、異常はみられなかった。

だけど、悲観的な事だけではなかった。ある日、夫のケアマネの合格通知が届いたのだ。とっても嬉しかった。辛さが吹き飛ぶような気持ちになれた。実父は、夫のケアマネ合格をとても楽しみに待っていたのだが、その吉報を伝える事なく亡くなった実父を思うと、残念で仕方がなかった。墓前に報告した。

二人の介護は、私にとっては、とても切実な問題だった。一人は、どんどん進んでいく認知症の母。一人は、頭はしっかりしているが、足がもとらない母。

しかし、私が二人をみなければいけない事は、一目瞭然。

 引っ越しをして、母は少し戸惑いがあったようだ。環境が変わると認知症は悪化すると聞いた事がある。パニックにならないかと心配だったが、夫や私が一緒にいる事で、安心していたのか、大きく乱れる事はなかった。時々「今日は、帰ろうと思うんだけど」と言う事があった。私は、それまで住んでいたマンションの事を言っているのかと思っていたが、そうではなく、自分が生まれ育った、大竹の玖波に帰ると言っていたようだった。認知になると、昔の事をよく話すとか、昔の事はよく覚えていると聞いていたが、認知症の症状がはっきり態度でも出てきているなと感じるようになった。夜になると、バックに何やら詰め込んでいる事もある。そんな時「何をしているの?」と聞くと、「帰ろうと思って。」と言っていた。「お母さんの家は、ここなのよ。ここしか帰るところはないのよ」と時間をかけて言いくるめるという日が何日も続いたりした。そのうち、帰るとは言わなくなったかと思えば、また、あの辛い発言をするようになっていった。「私を殺そうと思った事はない?」と聞くようになったのだ。私は、この言葉がいちばん辛い。考えた事もないような、とても辛い言葉なのだ。母には、本当に長生きして欲しいと思っているのだ。

私は、毎日こんな言葉を聞かされたら、それだけで可笑しくなると思った。もう、本当に限界かもしれないと感じるようになっていた。

 私は思い余って、夫に、施設に入所して貰いたいと話してみた。しかし、夫は、最期まで在宅介護をするつもりなのだ。「そんな事しなくてもいいだろう」と言った。思った通りの答が返ってきた。しかし、このままでは、数年先には、どうなっているか分からない、私も生きているかどうかわからないと思った。将来の不安を感じていた。思いきって、夫の妹や親戚に話してみた。

恐る恐る話してみた提案だったが、妹も親戚も、「博子さんが元気になってくれた方が嬉しいから、私は賛成よ」と、みんなが言ってくれた。母の妹(叔母)も「これからボケが酷くなるばかりなんだから、入れたらいいよ」と。みんな、私の味方。そう思うと、嬉しさと安堵で、涙が出てきた。だから、夫にも、施設の申し込みをするからと、半強制的に、私は、原爆養護ホームの申し込みに行った。申し込んだ後に、夫には延々と説得していった。「4年は待たなければ空きがないんだから。順番が回って来た時に、やっぱり在宅介護をした

いと思ったら、キャンセルをしてもいいじゃない。ただし、その時は、私は家を出ます。」と話すと、夫も取りあえずは、納得してくれたようだった。待つ4年は長い。だけど、4年待てば、私も楽になると自分に言い聞かせ、それを心の糧にして、頑張ってみようと思うようになった。私がいなければ、みんなが困るんだからと、自分を持ち上げた。

 施設の申し込みをしたとは言え、私の一日は変わらない。朝の母の排泄の処理から始まって、母のエンドレスな会話を聞くところから一日がスタートする。私の一番苦痛な時間だ。そして、デイサービスのお迎えが来ると、実家の実母の相手をする。買い物に連れて行ったり、病院に連れて行ったり・・・時には、歩かせた方がいいと思い、実母の大好きなウインドウショッピングに連れて行く事もある。実母といる時間が、一日の中では、気晴らしの時間なのだが、疲れる事には違いなかった。時として、私の体調が悪い時は、実母の話を聞くのも辛く苦しい事がある。でも、これも私の仕事だから仕方がないと思うようにした。

夕方は、夕食の準備をして、実母のところに届けて、母の帰りを待つと言う時間が流れていた。

二人の介護が始まって、一年足らずで、私の身体は悲鳴を上げていた。身体が重く、思うように動かない。もはや体と心が別物のように感じていた。もうダメだ。そう思った。会話が煩わしくなり、それまで好きだったウインドウショッピングにも行く気がしないし、好きだったテレビドラマにも関心がなくなっていた。お風呂に入る事すら億劫に思う事もあった。食事の用意なんて、もってのほかだった。好きだった料理をする事もいい加減になり、目玉焼きとウインナーに生野菜をつけて、あとは味噌汁だけと言う食事もあった。それが精いっぱいだった。が、夫は、何も言わなかった。「出来ない時は、しなくてもいいんだから。これだけあれば十分だよ」と言ってくれていた。私にとっては、罪悪感だった。私は、何も出来ない嫁であり、女房なんだと、自分を責めた。頑張ろうと思っても頑張れない。とても辛い日々だった。

こんな状態の中、少しは言う事を聞いてくれるようになっていた母が、また私の言う事を聞かなくなっていった。「ごはんを食べよう」と言っても「あかたが食べんさい。」と言って、一向に食卓に着こうとはしない。匂いがするので、トイレに誘導しようとしても、「未だ行かない」と頑固に行こうとしない。

 ある日の夜。私は、爆発してしまった。私の身体は、限界だったのだ。何が何だか分からなくなり、自分の身体をコントロールできなくなった。思い余って、夫に言った。話そうと思うと涙が出てきた。涙を流しながら「私と、別れて下さい」と言ってしまった。もちろん、不本意な事だったが、このままだと、私は本当に死を選ぶかもしれないと思ったのだ。実母より先に死ぬことは出来ないと言う思いが強かった。だから、離婚を選んだ。

ところが夫は「本気でそう思ってる訳じゃないんだろ」「僕の事を嫌いになって、もう一緒に住めないというのなら、仕方がないかもしれないけど、母ちゃんの事が辛くて、別れたいというのなら、離婚はしない」と言われた。夫の返事は分かっていた。多分、こういうだろうと思っていた。だが、私は別居でもいいと思っていたのだ。夫は言う。「暫く実家に帰ってたらどうだ?母ちゃんの事は、デイサービスの人に頼んでおけば何とかなるだろう」というのだ。デイサービスのスタッフの人には、いつも心配をかけている。この上、別居しているなんて事は言えるはずがないと思った。この上においても、私はまだ世間体にこだわっている自分が情けなく思った。これだけ辛い思いをしながらも、別居はダメだと思っていた。だから、いっそうの事、離婚した方がはっきりするし、私も気が楽になるんじゃないかと思っていたのだ。

結局、夫は「何もかも僕がするから、出ていかないでくれ」と言ことで治まった。が、私の心は揺れていた。何もかもすると言っても、実際には、夫が仕事に行ってる間は、私が母と実母の面倒を見なければいけないのだ。何も変わる事はないと分かっていた。だけど、夫の私に「一緒にいて欲しい」と言う気持ちで、私を留まらせてしまったのだ。夫の目が、訴えていたのだ。

その一件後の夫は、本当に多くの事をやってくれた。夫がいる時は、母のお世話は一切やってくれた。休みの日とか、時間がある時は、トイレなどの掃除もやってくれたのだ。私の家事仕事は、夕食の準備と、夫のお弁当作りが主になった。母にも「博子さんの言う事をちゃんと聞かないとダメで」と、言い聞かせてくれていた。

夜になると、私の身体の痛い部分をマッサージしてくれたりで、至れり尽くせりになっていった。が、それがまた私には罪悪感で、ますます気分が沈んでいった。勝手なもので、自分でやっても疲れるからダメ。夫にやって貰っても、罪悪感でだめ。自分でも、どうしたらいいのか自分で考える事が出来なくなっていた。私の頭の中は空っぽの状態で、身体は悲鳴を上げていた。結局、生きている事が嫌になってしまうのだ。いつも最終的には、ここに行き付いてしまう。

 

 

--- 母の二度目の入院 ---

何となく、ダラダラと気分の優れない、キレのない日々を送っていた。

毎日の暮らしは、本当に辛く、しんどい日々の連続だったが、24時間悲観的になっていた訳でもない。手の掛かる母だが、私が作った料理を3人で囲んで「美味しいね」と言って食事をしたり、3人でお出掛けをしたり、3人でいる時は楽しかった。3人でいる時は、夫が母の世話をしてくれていたと言う事もあるかもしれない。

何よりも、誰かの役に立っているという喜びを感じているところが、私にはあった。面倒な事は多いが、母の面倒を見てあげられるという喜びを感じていたのだ。これが、私達家族の姿なんだと思うと嬉しいのだ。しんどい事は多いけど、私が頑張れれば、ずっと3人で暮らしていければいいと思っていた。

夫も優しいし、私が母を叱ったり、大きな声を出しても、夫は私を責める事は一度もない。私を叱る事もなかった。私は、幸せなのだ。多分・・・

母が認知でなければ、同居する事はなかったと思うが、母が認知になった事で、今の私があるとも思っていた。なんだかんだと言いながらも、私は幸せを感じているのだ。

ただ、私が鬱病でなければ、もっと家族の有り難味や喜びを感じられたのではないかと思っていた。そう。鬱病であるがゆえに、私の身体は悲鳴をあげる。

突如として、身体が動かない。頭で考えるようには出来なくなっていく。こんな筈ではないはずなのに・・と思いながら、介護の時間が流れて行く。

しかし、健康で理解のある夫と一緒にいられる喜びの方が大きかったかもしれない。もっと辛い思いをしている人が世の中にはたくさんいる。そう思うと、私は介護があるなし関係なしで、心の片隅で幸せ者だと感じるようになっていった。

そんな事を考えるようになったある日の事。母の具合が悪くなった。母が「胃が痛い。」と言ってうずくまっているのだ。顔は蒼白になり、汗を出しながら吐き始めた。夫は、異常を感じ、直ぐに救急車を呼んだ。

一度目の時のように、夫が救急車に乗り込んで病院に行った。私は心配しながら、夫の連絡を待った。

電話があった。検査の結果、胆嚢に石が溜まっている事で腹痛が起きたと言われた。即、入院になった。しんどいなんて言ってられなくなった。

入院はしたものの、高齢で認知症もあると言う事で、手術は出来ないと言われた。応急的

に、石を流し出す処置がされた。ここで問題があった。初めての入院の時は、毎日病院に行けば良かったが、この度は、それではダメだった。完全看護が必要だと言う事だったが、看護師も母だけに付きっきりと言う訳にはいかない。24時間、付き添って欲しいと言う事だった。入院した翌日から、夫と代わる代わる付き添う事になった。夜は、夫が付き添い、病院から出勤。私は、午前中から付き添う事にした。夫が泊まり込む日が暫く続いた。私は、疲労感が取れない日が続く。

3日ぐらいして病院に行った時、看護師がバタバタしていた。何事かと思い、母の枕元に寄ってみると、パジャマが血に染まっていた。私は、心臓が止まりそうになるくらい驚いた。大変な事になっていると思った。が、病状の悪化とかではなかった。母が、自分で点滴を抜き、パジャマが血だけになってしまっていたのだ。「やってしまった!」そう思った。

母に「どうして、点滴を抜いたの?」と聞いてみた。どうやら、幻覚を見たようだ。

「花が落ちていたから、拾おうと思ったら、誰かが、針を抜いた」と言った。もちろん、花など置いていなかったし、針を抜いた人はいない。こんな状態が続き、私も、早めに病院に行かなければいけなくなった。

こういう日が、何日か続き、夫も看護疲れで、疲労はピークになっているようにみえた。

一週間ぐらいして、管理室みたいな部屋に移された。その部屋には、同じく認知症の人がペットに横たわっていた。点滴が終わるまでは、目が離せないのだ。昼間は、車椅子に座らせて、ナースセンターで塗り絵みたいな事をやっていた。看護師の目の届くところにおいてくれていたのだ。私は、ホットとした。お陰で、朝早くから病院に行かなくても良くなったのだ。数日経つと点滴が外れて、薬だけで様子を診るようになった。

退院間近になった頃に病院に行くと、個室に移されていた。一般病室が空いていなかったのだ。病室に入ると、悪臭がしていた。便の匂いだ。個室にはトイレが付いているので、直ぐにトイレに誘導した。ペットから降りた時、ペットを見ると便で汚れているのだ。私は、大変な事をしたと感じていた。あわてて、ナースコールを使って、看護師を呼んだ。直ぐに来てくれた。看護師は、手際良く母の便の処理やペットのシーツ換えなどをやってくれた。母は、「びっくりした」と笑っていた。そして、いつもの言葉「えらい目に合わせるね。ごめんなさい」と言う。看護師は、「いいのよ。藤田さん、大丈夫だからね」と優しく言ってくれた。トイレの清掃の人も来て、素早く掃除をしてくれた。さすがに、看護師も清掃の人も、慣れてる様子で、あとの処理が素早かった。だけど、トイレが付いている個室で良かったと思った。こんな入院が続いて、10日ぐらいして退院した。

 この10日くらいの間、実家に行く時間が少なかったが、夕食だけは、届けた。実母は、認知症はないので、話をすれば分かってもらえる。そして、ちょっとした事は、時間をかけてでも、自分で未だ出来るので、その点は助かった。実母が認知症でなくて良かったと、つくづく思った。

 退院後は、直ぐにデイサービスに行かせたかったが、母の頭が混乱すると思ったし、入院疲れもあると思って、一日休ませた。

 

 

--- 介護の現実---

 母が退院し、私はいつもの介護生活に戻った。母が入院している間は、一人の時間が幾分かあったので、心身共に楽だと思う時間があった。一人の時間が、こんなに大事な時間だとは思ってもいなかったが、今の私には、一人の時間がとても大事だった。

 近年、認知症や障害者を取り上げられたテレビ番組が多くなった。それだけ、認知症の方が増え、傷害を持った方が多いと言う事なのだろう。私は、自然とそういう番組を見るようになっていた。夫も、ケアマネの仕事をするようになってからは、これまで以上に、そういうテレビ番組を見るようになっていた。

テレビをみていると、認知症を抱えて、一人介護をし、とっても苦労している方の話を聞く。突然、大声を出して、ヒステリックになったり、徘徊をしたり。そうかと思えば、全くものを言わない認証と向かい合う難しさなどなど。

私は、思った。私、なんて楽な介護なんだろうと。母は、大声をだして暴れる訳でもなく、ヒステリックになる事もあまりない。足が痛いと言って、徘徊もしない。私の事を「大好き」だと言って、悪く言った事はない。ただ、排泄が分からないと言う事と、自分勝手な言動、同じ事を何度も繰り返し話すと言う事で私は、振り回されていた。そして、足が不自由な実母の買い物、病院に連れて行く事ぐらいだ。しかも、夫が、母や実母の介護にとても協力的で、本来なら苦痛にならないはずなのだと思った。

だけど、本来の私なら、こんなことは、何の問題もない筈なのに、どうして辛いんだろう?どうして、苦しんでしまうのだろう?と考えてみた。そして、心療内科の先生に話してみた。行き付くところは、やっぱり鬱病だった。

だけど、私は、こんな人間じゃない!と言う思いが強くなっていた。私は、何でも計画的にしゃんしゃんやって、何でも、完璧だと思うぐらいにきっちりとやっていた。それも、楽しみながら、明るくこなす。私は、うじうじと介護に振り回される人ではない。そう、思った。もし、私が鬱病でなければ、こんなに辛い思いはしないかもしれない。私が普通に本来の自分でいれば、介護なんて大したことではないと思った。テレビをみながら、こんな事を思うようになっていた。

母の事を考えても、こんなに楽な認知症はいないのではないかと思った。実母の事も、動きがのろくなっているけど、昼食を一緒に摂ったら、直ぐに帰ればいいんじゃないかと思う。そうしたら、イライラする事は何もないのではないかと思うようになっていた。

世の中には、私よりも辛く苦しい思いをしている人は、いっぱいいるのだ。こんな事で、ねをあげる私であってはいけないのだと自分に言い聞かせた。そう思うと、未だ頑張れると思った。

そして、これまでの母を中心にした生活は止めよう。私のペースで出来る事をやる。出来ない事はやらない。あたりまえの事だと思うけど、それまではそう思わなかった自分がいたのだ。暫くは、そういう気持ちでやってみようと思った。

私の気持ちの持ち方で、家庭内が明るくなったように思えた。しかし、そういう気持ちは、長く続かなかった。

 私が、いつも良い顔をして、にこにこしていると、母は私の機嫌が良いと感じたのだろう。私が穏やかに母と接していると、母は調子に乗ったみたいに、どんどんわがままを私にぶつけてくる。あれをやって。とか、あれを出してとか。これは、ダメ。あれはダメと自己主張してくる。自分では全く動かなくなった。全て、私を奴隷のように扱った。母にしてみれば、私は都合のよい家政婦みたいなものなのだ。私は、母が落ち着いてくれればと思って、ついつい言われるままに動き、自分のペースでは、動けなくなっていった。

母は、認知症なんだから・・・と自分に言い聞かせながら、出来るだけ関わらないように、何を言われても知らん顔をしていたが、名指しで「博子さん」と声をかけてくると、聞いて聞かないふりも出来ず、母の言われるままに、また動いてしまう。

これでは、ストレスが溜まらない訳がない。どちらかと言えば、自分中心の生活をしていた私が、人の言われるままに動いて、ストレス溜まらない筈がない。再び、ストレスはピークに達する。

 「私は、親の為に生きて行かなければいけないんだ」と、気持ちが崩れていく。そんな時は、頭と身体が別人になってしまうのだ。頑張ろうと思えば思うほど、心身のバランスが崩れていくのを感じた。

私は、自分と向かい合った。鏡に向かって、笑ったりしてみる。そして、じっーと自分の目を見て、はっとした。怖かった。生き生きした目ではないのだ。生きている人の目ではないと感じた。私は、自分の顔を手を覆った。見たくない顔だと思った。それ以降、自分の顔を見るのが辛かった。いや、苦しかった。息が出来なくなるほど苦しかった。

 夫に愚痴をこぼす事が多くなっていった。その度に「まともに相手にしちゃダメだよ。何でもふんふんと言っておけば、母ちゃんは納得するんだから」と言われる。

だが、私の性格から、真っ向から向かい合いたい人だから、どうしても正面から向かい合おうとしてしまう。夫のように、ふんふんと言っているだけだったら、どれほど楽だろうと思うのだが、それが出来ないのだ。自分の生真面目な性格を恨みたくなるほどだ。

 幸いにして、母は、私の事をデイサービスでも、とても良く言ってくれているようだった。朝、デイサービスから迎えに来た時、「いいお嫁さんなのよ。よくしてくれるの。」と言ってくれているようだった。これは救いだと思った。

私も、頑張って頑張って、怒らないようと必死に自分の気持ちを抑えようと努めている事が幸いして、母にそんな言葉が生まれるのだろうか。近所の人からも、「よくやってあげてだねぇ。」と言ってくれていた。これが、私の励みになっていたのだ。救われていた。

もう、自分との闘いだった。自分の心身と、母の認知との闘い。いつまで、こんな生活が続くのか?これだけが、苦しかった。

 

 

 

--- 施設入所案内 ---

 毎日毎日、もうダメだ。死んでしまいたい。と考えていた。が、私には、実母がいる。実母が生きてくれている限り、私が先に死ぬ事は出来ない。そういう思いが、私の身体をコントロールしてくれていた。しかし、もし実母が亡くなると言う事があったら、私も生きてはいない。そう思っていた。心のよりどころがなくなるからだ。実母は、身体こそ、思うようにならなくとも、頭はしっかりしているので、私の愚痴を聞いてくれたり、励ましてもくれている。私の駆け込み寺のような役目をはたしてくれている。実母といる時間は、夢の世界のような気持ちにさせた。

あまりにも辛い時は、実母に話をするのだが、家に帰り母が帰ってくる時間が近づくと、やっぱり、またイライラしてしまうのだ。私の心の中では、夢から覚め現実に戻る時間だ。

私の気持ちは、時間毎に変わり、いつも揺れ動いていた。身体を横にして数時間休んだり、買い物で気晴らしをしたりしながら、気が付けば8年が経過していた。

もう、8年も介護に追われていたんだと思った。思えば、友達と会う事も出来なかった。時々、ラインやメールで会話をするぐらいしか外部との接触はなかったことに気が付く。メールの中には、私と同じように親の介護で苦労している友達もいる。そうかと思えば、子供も独立して、自由奔放にのびのびと人生を楽しんでいる人もいる。どっちが良いかはわからないが、私は、若いころは、自分の思うようにのびのびと人生をエンジョイしていた。人の人生って、山あり谷ありで、順風満帆という訳にはいかないようだ。私は、その苦しむ時が今なんだと思った。今が谷。

冷静に考えると、私の頭の中では、そう思う。が、身体が思うようにならない自分が痛々しいのだ。この8年間、身体が楽な事は一日たりともなかった。頭は疲れる。身体も言う事をきいてくれない。夜も熟睡出来なくて、寝た気がしないし、昼間も、身体をしっかり休める事は出来ない。心の底から疲れが取れないのだ。

夫は、「土曜日は、お母さんのとこに泊まったらどうよ?」と言ってくれていた。私も、それを考えてもみたが、私が留守をしている間に、家の中がどうなるかわからないと思うと、家を空ける気がしなかった。食事の用意もいなければいけないし、洗濯もしなきゃいけないと、土日でも、家事はいっぱいある。主婦には休みがないのだ。

8年経ったある日の午後。いつものように頭痛に耐えながら、今日も一日が始まり、早速、母の下の世話から始まり、母の同じ話を何度も何度も聞き、デイサービスに送りだす。

今日も、変わり映えのしないいつもの一日が始まったと思って、憂鬱な気分で過ごしている時、一本の電話が鳴った。

原爆特別養護ホームからだった。電話に出た時は、ピンとこなかった。すると「入所の順番が回って来ましたので、ツヤコさんと面談したいのですが」と言う電話だった。私の心臓は、バクバクと大きな音を立てて、興奮していた。「やったぁー」と叫びたい気持ちと複雑な気持ちが交差していたが、無意識の内に右手に軽く握りこぶしを作っていた。申し込みして4年が経っていた。

やっと、やっと来る時が来たと思った。頭の中には大きな花火が大きな音を立てて、祝福してくれているような気分だった。

その夜、夫に入所の順番が来た事を話した。音は、いつも在宅介護を望んでいたので、キャンセルすると言ったら、どうしようと少々不安だった。

原爆特別養護ホームに申し込みをする時、順番が回ってきて、その時にキャンセルするようであれば、離婚しましょうと話していたのだ。入所が決まったと言った時、夫は即答で「そうか。分かった。」と一言。夫も、複雑な気持ちだったと思うが、もう気持ちの中では、決まっていたのかもしれない。

それと、私が出て行くと、仕事も出来なくなると思ったのだろう。私は、ホッと肩を撫で下ろした。これで、私の体調も回復していく・・・そう思った。私にとって、体調の悪さが一番のネックだったのだ。

しかし、私も手放しに喜んだ訳ではなかった。冷静に考えると、何故か、両手をあげて喜ぶ事はできなかったのだ。母は、追い出されるのではないかと思うかもしれないと思えば、可愛そうな気もしていた。言葉は悪いが、老人ホームと言えば、今風の姥捨て山のような気がしていたのだ。後ろ髪を引かれるような思いがあった。

 入所が決まって、妹に連絡した。妹は、良かったと言ってくれた。やっと来たと言う感じだと。これからの母は、分からなくなるばかりなんだから、良かったよと、喜んでくれているようでもあった。

これで、私の肩の荷が下りた気分だった。

 

 

 

--- 入所日 ---

 入所に当たって、準備する事があった。洋服や肌着などに、全て名前を書かなければいけない。足りないものは、買って用意しなければならなかった。この作業がけっこう大変だったが、心地好い忙しさだった。これが最後の私の仕事と思い、一枚一枚、丁寧に名前を入れていった。緊急の為に入院用のバッグも用意しなければいけなかった。そして、テレビも買わなければいけない。準備をする時間はあまりなかった。大急ぎで、入所の為の用意を整えた。

 入所当日がやってきた。母は、「どこに行くん?」と何度も聞いてきた。近年は、ショートステイも何度か利用していたので、「お泊りに行くのよ」とだけ話して、後は夫が適当にごまかしていた。ホームに着いて、帰ると言って駄々をこねたら、どうしよう?と、気が気ではなかった。ホームに着くと、スタッフの方が、気持ち良く出迎えてくれた。母も笑顔で「こんにちは」と、言った。このままスムーズにいけばいいんだけど・・・と、また不安を感じていた。テレビを持って行ったり、段ボール箱に、衣類をいっぱい詰め込んで持って行ってるのを母は見ている。何かを感じているだろうと思っていた。

しかし、私達の心配は無用だったようだった。意外とあっけなくホームを後にする事ができた。よく聞く事は、親をホームに入所させる時、帰り際には、みんな涙を流すと聞いていたのだ。ホームは、現在の姥捨て山のように考える人が多いのだろう。そういう気持ちが涙を誘うのだろう。実際はそうではない。決して姥捨て山ではないのだ。薄情と思われるかもしれない。だけど、母にとっても、自由に好きにできるのだから、家の中にいて、私からぐずぐず言われるよりもいいのではないかと思う。それは私が勝手に思うだけかもしれないが。夫は、私の事を考えて、入所を了承したのだと思う。有難い。私は、本当に幸せ者だと、入所日に改めて感じた。母には申し訳ないと言う気持ちがないわけではない。

後ろ髪惹かれる思いで、ホームを後にした。

 

 

 

--- 8年ぶりの夫婦二人の暮らし ---

 20017年10月。私達二人だけの暮らしが戻った。もう、何十年も一緒にいる夫婦のような気がした。それだけ母との暮らしが長く感じたのだろう。

 二人を介護している間は、孤独だった。夫は、いつも傍らにいてくれた。それでも、孤独だった。今では、みんなが一緒にいると言う感じがしている。介護というのは、孤独を呼びよせる魔の時間だと思う。その孤独感がなくなった今、やっと穏やかな気持ちになれた。

しかし、私には未だ課題がある。実母の介護と私自身の鬱病完治と言う目標もあるのだ。母の事でいっぱいいっぱいだった私は、実母の事はあまり気にしていなかったところがある。母を入所させた事を報告に行った時、母の姿をまじまじと見て、ぞっとした。

腰はますます曲がって来ているように見えた。歩くのも、足が痛そうで、見るのも辛いぐらいだった。母の希望もあって、整形外科を受診した。

リハビリをやって様子を見ましょうと医者から言われた。週に二回から三回程度のリハビリに来て下さいと言う事だった。

一難去って、また一難。週に二回のリハビリと、月一回のリウマチの受診。そして、週に二~三回の買い物。そして、月一回の白髪染めに連れて行く事が、私の仕事になった。夕食は、相変わらず、毎日、私が作ったものを運んだ。

今は、私のうつ病治療と内科の受診で体調を整えながら、実母のお世話をしている。

しかし、嫌だとかやりたくないと言う事はない。それは、私の母親だから。

母は、私を頼っている。だから、私は、それに答えなければいけない。これまで、自由奔放に生きてきた私を黙って見守り、好きにやらせてもらったのだから、今度は、私がお返しをする番だと思う。

毎週日曜日には、母の施設を訪問している。私達が会いに行けば、母は穏やかな表情で「会えると思わなかった」と喜ぶ。それが嬉しい。

 私達夫婦は、やっと夫婦らしい二人の生活が始まった気がする。結婚して、9年目に入った。介護は、まだまだ続くけど、今私は、家族がいる嬉しさと悦びでいっぱいだ。

鬱病も、少しずつ安定してきている。まだやる気が起こるところまではいかないけど、いろんな事に興味が出てきた。テレビも、面白いと思えるようになってきたし、外出もあまり苦にはならなくなってきた。これからは、無理なく、出来る事から始めようと思う。

もう、死にたいとは思わない。夫とともに、一日でも長く生きていたいと思うようになった。月二回の心療内科の受診は続くが、鬱病も、時間を掛けてでも、治していこうと前向きに考えている。もう、後ろは振り向かない。私らしく、前向きにポジティブに生きて行きたい。それが、本来の私の姿だから。

早く、私に会いたい!!

 

 

 

--- お終いに ---

8年間の介護を経て、私が思った事は、個性のある生身の人間が相手で、介護する側の思うようにならないのが、介護の現状だと思う。

認知症の介護は、身体だけでなく、心も健康でなければ介護は務まらないという事だと思う。介護の途中で鬱病を患う人も少なくはない。むしろ、平常心を忘れがちになるのが、殆どかもしれない。

だからこそ、決して一人では抱え込まない事だ。

私は、幸いにして、介護の条件は揃っていたのだ。私自身が、介護の職場にいた経験があり、夫はケアマネージャーと言う、在宅介護をするには、もってこいの状況だった。それに加えて、周りの人々の理解もあったのだ。

だから、私自身が鬱病を患いながらも母のお世話が出来た。私達の親の面倒を診るのだから、お世話をする事においては、気持ちの面では苦とは思わなかった。しかし、介護を始める時には、既に私は鬱病を患っていたのだ。それが、心身ともに苦しくなっていった。

そして、つい一生懸命になってしまい、自分の心身のバランスがとれなくなったのだと思う。真剣に、死を考えた事もある。

介護人は、デイサービスやショートステイを巧く利用しながら、時には、束の間でもいいから、身体を休める時間が必要だと思う。頭では、そういう施設を利用したら良いと分かっていても、人を相手のする事だから、頭で思うようにはいかないのも現実だと思う。私の場合、束の間の休息も、身体が休まった気がしなかった。

個性のある人間を相手にする訳だから、頭で思うようにはいかない。まして、認知症となれば、相手の考え方や行動が把握できず、予測することが難しいのだ。だから、目が離せなくなるのだ。

私は、認知症の母と向かい合う時は、否定も肯定もしない事に努めていた。この私の姿勢が良かったかどうかはわからないが、否定も肯定もしないと言う事は、相手を尊重している事になると考えた接し方だったので、疲労は溜まるばかりだった。しかしながら、母と真っ向から向かい合いあった事が良かったのか?と思う事もあったが、私はちゃんと向かい合った事は良かったと思っている。だから、母は私を非難する事がなかったのだと思う。

認知症にもいろんな症状があり、それは、人に寄って違う。耳にするのが徘徊だったり、暴力的になったり。

私の場合、母は足が痛いと言って徘徊はなく、暴力的な言葉もあまり聞かなかった。時に暴言はあったが、その都度、私は落ち込んでいた。それでも、いつもの事と自分に言い聞かせて、笑顔を絶やさないように努めた。そうは言っても、私も生身の人間で、個性を持っている。腹立たしい事も多くあった。子供を叱るように、母を叱った事もある。しかし、叱った後で、自分で後悔していた。そんな事が続いていたが、私は必死で母と向かい合った。それで良かったと思う。

私は、世の中の介護をしている人に言いたい。介護は、決して一人では抱え込まないこと。

親戚や御近所など、周りの人の理解を求め、協力してくれる人がいるのであれば、それに甘える事も大事なのではないかと思う。

鬱病になってしまうと、介護も出来なくなるし、介護している人が倒れる事だってありうる。介護は、みんなでするべきではないだろうか?

昨今、介護疲れがもとで、事件が起きている。介護する人が自殺願望や死亡願望を抱き、心中する人もいる。私は、そうなって欲しくない。

 鬱病認知症の介護は、本当に辛い。辛くて辛くて、息が出来なくなるほど苦しい。

だけど、母を介護する事で、人はなぜ生きているのか?と言う事が僅かながら分かった気がするし、私自身、ほんの少しかもしれないけど、成長した気がする。今では、母の介護をして良かったと思う。母には、感謝をしなければいけないのかもしれない。

お母さん、ありがとう。

母は、現在施設で穏やかに過ごしているようだ。今度は、実母の介護をしっかりとしようと思う。実母も、いつ認知症になるかわからないけど、もう、私は愚痴る事なく、しっかりと、相手の目を見てお世話をしていく事だろう。

やっぱり、親孝行するって、いい気分だ。

 人に優しく、自分を愛する事。これが私の生き方にしたい。